ファイナンス

敵対する実力者を排除せずに上手く活用するには!?

2020.10.05

歴史のもしもを検証!もしも、蘇我入鹿が暗殺されなかったら?

よく歴史にもしもは存在しないと言われています。
関ケ原の戦いで徳川家康が負けたら?
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡しなかったら?
など考え出したらきりがありません。
古代飛鳥時代に各地の豪族から、現在の天皇家に権力を集中させ、統制のとれた国家運営を行った「大化の改新」ですが、当時もっとも権力を持っていた豪族、蘇我氏の当主である蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変から始まっています。
中大兄皇子と中臣鎌足によって、天皇家滅亡を企てていたとして、宮中で蘇我入鹿が暗殺された衝撃の事件ですが、その暗殺理由に疑問を投げかける専門家も多くいます。
医院経営の際にも権力争いにより退職に追い込まれたり、別の医院に移らざるを得ない状況になったりということもあるでしょう。
今回は、歴史のもしもということで「もしも乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺されなかったら?」というテーマを基に、敵対者を排除するのではなく、うまく活用する方法について考えてみましょう。

蘇我氏は飛鳥時代の有力豪族で、蘇我入鹿は稀代の天才と謳われた

聖徳太子の死後、地方豪族が力を持ち、その中で朝鮮半島からの技術や学問などを受け入れるような外交面での管理を天皇家から任されていた蘇我氏が特に有力な豪族となっていきました。当時、中国や朝鮮半島の方が技術や学問が進んでいて、先進技術や学問を次々と取得していった蘇我入鹿は、学問を学ぶ学び舎では稀代の天才と称されていました。同じ学び舎には、乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺する中臣鎌足も在籍していて親しい仲だったと言われています。
聖徳太子の生きていた時代はこうした豪族は手綱をつけられたような状態だったのですが、その死後、豪族たちは勢力争いを始めます。中でも海外からの先進的な情報が入る蘇我氏はその筆頭で、天皇家を滅ぼすのではないかという疑念が生まれてきました。

中臣鎌足は蘇我氏に恨みを持ち、中大兄皇子と共謀

中臣鎌足は、蘇我氏に仕えていましたがその職を辞して蘇我氏が力を持つことを阻止しようと考えます。そこで皇族である中大兄皇子と知り合い、乙巳の変を企て、蘇我氏を滅亡させる計画を実行します。
蘇我入鹿は宮中で暗殺されましたが、中臣鎌足は蘇我入鹿と同じ学び舎で学んだ者同士です。中臣鎌足が蘇我入鹿に対してそこまで強い恨みを持つ原因は何だったのか、推測の域を出ません。
その後、大化の改新の始まりとなる改新の詔が発行され、天皇家を中心とした律令国家の始まりと言われていますが、天皇家を中心に公地公民制度や官僚制度を整備したとされている一方、豪族の支配が続いていた地域もあったと言われています。
これは大化の改新により律令国家制度が始まったとされる記述が日本書紀に記載されていますが、同じ時期の木簡など他の文献からはそこまでの記述がないためです。日本書紀は飛鳥、奈良時代を代表する歴史文献ですが、多くは中大兄皇子と中臣鎌足らの乙巳の変を共謀した勢力によって改ざんされているという見方が強いのです。大化の改新が目指した律令国家の原案は蘇我氏が作成していたともいわれており、蘇我氏が本当に天皇家を滅ぼそうとしていたのかは未だに謎のままです。

【歴史のもしも】蘇我入鹿が暗殺されていなかったら、白村江の戦は大敗しなかった??

もし、中臣鎌足と中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺がなかったら、どうなっていたのでしょうか?
蘇我入鹿のいた蘇我氏は外交筋では交易などで実力と財力を持っていたため、もし、蘇我入鹿が生きていれば、朝鮮半島の情勢などもよく入ってきていたはずです。
蘇我入鹿暗殺(645年)より後の663年、日本と友好関係にあった朝鮮半島の百済と手を組み、当時の中国である唐と友好関係にある朝鮮半島の新羅と戦った白村江の戦いが起こりましたが、これは当時先進国だった唐の力を借りた新羅にはかなうはずもない無謀な戦で、兵も農民や顔も見たこともない豪族同士の連合軍で、士気も全くなかったと言われています。
蘇我入鹿が暗殺されずに天皇家に仕えていたら、朝鮮半島に詳しい外交力を使ってこうした無謀な戦は起きていなかった、もしくは歴史的な大敗まではしていなかったのではないかという考えもあります。
最も白村江の戦いを始めたのは、蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子とその母親の斉明天皇でした。蘇我氏を滅亡させた後に、求心力を保つために国内の目を海外に向けたのではないかという見方もあります。

蘇我入鹿の怨霊に悩まされ続けた中大兄皇子と中臣鎌足

日本の歴史を見ると多くの悲痛な死を遂げた重要人物がいます。そうした人物はしばし怨霊や祟りとしてその後の世にも登場します。蘇我入鹿についても例外ではなく、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿の怨霊に悩まされ続けたという逸話が数多く残っています。
これは怨霊が実在するかどうかということもありますが、その人自身の罪の意識も大きく関係しているのではとも考えられます。
特に中臣鎌足は、同じ学び舎で親しい仲だった蘇我入鹿を権力争いのために暗殺したのですから、普通の精神を持っていたら、想像を絶する罪の意識を抱えていたはずです。

医院経営での「大化の改新」は友好的に

医院経営でも、聖徳太子のような大きな人物がいなくなった後、医院の経営が混乱することがよくあります。蘇我氏のように実力を持った人物が台頭してきて、権力を取られるのではないかと感じた経験をされた医師の方もいらっしゃるかもしれません。
そんな時に乙巳の変のように実力者を排除して、律令国家のような自分の目指すべき医院経営を実現しようとすることは可能でしょう。しかし、その後に医院経営は実力が落ちた状態で行わなければならず、様々な弊害が出てくる可能性があります。
飛鳥時代の日本は成熟国家ではなかったために、こうした無益な暗殺が繰り返されていました。時が流れて戦国時代には、塩の調達に困った武田信玄に敵対する上杉謙信が塩を送り続けたという逸話があります。これは内陸の甲斐の国(山梨県)では塩が高値で売れるというビジネス上の利害一致のための行動だったのですが、現在も「敵に塩を送る」という言葉が残っています。

まとめ

医院経営においても、敵対する実力者を排除すれば自分の思い通りに医院を運営できるのではと考えてしまうことがあるかもしれません。敵対者をクビにするなど、排除する方が簡単かもしれませんが、その敵対する相手が実力者であればあるほど、その人を排除する弊害も生まれるでしょう。蘇我入鹿の場合のように、情報や利益を得るルートが絶たれるかもしれませんし、その敵対者を慕うスタッフが一緒に辞めてしまうかもしれません。
医院の運営に困ったら歴史から、いい例と悪い例を学んでみると思わぬ解決策にたどり着くこともあります。時代背景は変わっても、人の心は大きく変わっていないためです。
このように、歴史上の出来事には、医院経営に参考になる事例が多数存在しますので、思わぬ壁にぶつかってしまった際には、歴史上の出来事にその解決の糸口を探してみてはいかがでしょうか。

執筆者:DR’S WEALTH MEDIA編集部
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