ファイナンス

現代でも生かせる!上杉氏が行った未来への種まきとは!?

2020.07.30

上杉鷹山は米沢藩の財政危機をどう切り抜けたのか?

「為せば成る」というフレーズを一度は耳にしたことがある方も多いのではないかと思います。やればできるという意味で使われることの多いこの言葉は、江戸時代の第9代米沢藩主、上杉鷹山の「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成けり」から来ています。上杉鷹山は、アメリカのケネディ大統領が最も尊敬する日本人として挙げたことでも有名ですが、上杉鷹山とはどのような人物だったのでしょうか?
今回は、上杉氏が米沢藩を財政危機から救うために行った政策から見えてくる、新型コロナウイルスによる生活や医院経営の激変に対応するためのヒントについてお伝えします。

米沢藩の財政危機真っ只中に藩主に就任

上杉鷹山が藩主になった米沢藩は、現在の山形県米沢市に位置し、米沢藩を統治する上杉家は、戦国時代に上杉謙信が現在の新潟県に位置する越後で絶大な権力と領地を持った大名家で、さらに豊臣政権時代には徳川家康や百万石で有名な加賀藩の前田利家などと肩を並べた「五大老」の一人として上杉景勝が政権の中枢で活躍したこともあり、天下統一まであと一歩というところまで行った名門です。
しかし、上杉鷹山が藩主となった江戸時代中期では、その名門の名残は全くなく、関ヶ原の戦いで上杉家が豊臣側についたことから、徳川家康から国替えを命じられ、豊臣時代には100万石あった領地が、現在の米沢30万石に大きく減らされていました。大きく領地を減らされると家来である武士も減らす必要があったのですが、上杉家では家来を減らすことなく、30万石への国替えに応じます。家来が多い状態で少ない領地の藩を運営すると、それだけ費用がかかりますが、大きな領地を持っていた頃の貯蓄があったため、少々無理をしても問題はなかったようです。しかし、さらに悪いことが続き、上杉家の家督を継ぐ男系が断絶するという当時としては大失態を犯し、幕府からも目を付けられます。上杉家の名門ということでお家断絶は避けられましたが、30万石あった領地は、さらに15万石まで減らされてしまったのです。この頃には、裕福だったころの上杉家の貯金も底をつき、倹約の必要があったのですが、領地の多い状態だったころと同数の家来と、上杉家の格式高い年中行事などを行うのに無駄なお金を使っていた状態でした。
米沢藩の領民は、こうしたいい加減な藩からの重税に苦しみ、逃げ出す人も多かったと言われています。そんな中、養子として上杉家に入り、米沢藩の藩主となったのが上杉鷹山です。どう考えても八方ふさがりの状態の米沢藩に藩主となったのです。

誰もが上杉の名前に胡坐をかいていた

石高を減らされても、家来を誰一人としてリストラしなかった上杉家の決断は雇用を守るという意味では重要な意味を持ちます。しかし、100万石あった領地が15万石にまで減った状態で同じように仕事をしていたのでは、人が余り始めます。石高を売上や税収、藩主は現在の市長や県知事のような役割をしていた人物と考えると、それがどの程度深刻な事態であったか想像できるでしょう。そこまで石高が急激に減ったのに、人が減らないと、家来の意識も「何があっても上杉様が守ってくれる」と怠けだしてしまうかもしれません。当時、家来の多くは城に行っても仕事がないという状態だったと言われています。上杉鷹山はこうした家来の意識改革に乗り出したのです。

武士に農業や水産業を行わせる意識改革

家来の多くは武士ですが、武士といっても上杉鷹山が藩主となった江戸中期は戦もない天下泰平の世の中でした。そんな武士はプライドだけが高く、お城にいても始まることのない武術の稽古に勤しんでいたようですが、明日の食べるものにも困る米沢藩にそのような余裕はありません。上杉鷹山は、自らが進んで倹約を行いましたが、それだけで財政危機を乗り切ることは難しく、武士に農業や、水産業でもある鯉の養殖を命じます。農民と一緒になって藩の外にも販売できる良質な特産品を開発し、外貨を稼ごうと考えたのです。そして、減らされた石高を補うように米以外の利益率の高い製品を開発しようと、各地の職人や農業技術者などを招き、教えを受けたのです。
この動きには反発もありましたが、上杉鷹山はこうした声にも耳を傾け、とにかく説得をしたと言います。不正を働いた者には厳罰をし、公正な藩の運営に取り組み、そういった地道な取り組みが、米沢藩の財政を改善していき、上杉鷹山が藩主となってから33年後には借金を完済したのです。

新しい産業を地域に根付かせるためには教育への投資が不可欠

まだ誰も行ったことがないことを行うためには、様々なことを学ぶ必要があります。そのためには農民や武士など分け隔てなく基礎的な学問を習得する必要もあるでしょう。そのような学びや教育は、今すぐに効果が出るというものではなく、未来への投資と言えます。こうした投資を上杉鷹山は積極的に行い、興譲館という藩校を設立し、武士の子弟だけでなく、農民や商人も受け入れています。財政危機に瀕している米沢藩ではそんな余裕はなかったはずですが、上杉鷹山はこうした教育に対する投資は惜しまなかったようです。これは、この藩校で育った学生が、米沢藩の財政改革に協力するような案を出してくれるということを考えていたためと言われています。
学びを辞めてしまうと、過去の経験からしか物事を考えられなくなってしまいます。革新的な人間を育てるためには、教育への投資が必要だということを上杉鷹山は理解していたのでしょう。

上杉鷹山の考えは現代にも通じる

新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、新しい生活様式が提唱され、今までの常識が通用しないことも多くなりました。感染拡大を防止するために、様々な配慮が必要となり、来院患者数が減ってしまったという方も多いのではないでしょうか。この状態が長く続くと、医院の経営計画を根本から見直す必要に迫られるかもしれません。今まで当たり前にできていたことが困難になってしまい、変革を迫られた場合、多くの人が慌ててしまいますが、こうした時にこそ、学びや教育が重要な意味を持ってきます。
今までの常識を打破するためには、既存の考えにとらわれない革新的な考え方が必要となります。その基礎となるのが学びや教育です。米沢藩が財政難で明日の食べるものにも困るという状態だったにもかかわらず、上杉鷹山は農民や商人も通える藩校を開設したこと。それは新型コロナウイルスによる医院の危機が訪れていても、新たな医療技術の習得や後継者の育成などをやめてはいけないということを意味しています。
未来につながる希望の種は、教育や学びによって継承されていくと言うことを上杉鷹山の米沢藩再建の例から読み取ることができるのではないでしょうか。

執筆者:DR’S WEALTH MEDIA編集部
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