様々な考えや能力を持つスタッフをまとめるために必要なこと
2020.01.10
中曽根康弘元首相に学ぶ経営論
去る令和元年11月29日に中曽根康弘元首相が亡くなりました。多くの人が首相として活躍していた印象が強い人物ではないでしょうか?首相として行った政策も、その後の日本にとって大きな影響を与えたものが多かったため、その手腕も評価されています。
そんな中曽根康弘元首相の「日本の経営の仕方」を見つめなおし、医院の経営への応用を考えていきましょう。
中曽根康弘が首相になるまでの経歴
中曽根康弘は大正7年(1918年)に群馬県で生まれ、東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省します。戦前の日本では、中央省庁は現在のように多くの省庁に分かれていたわけではなく、内務省に多くの権力が集中していました。ここに現在の東大を卒業して入っているので、現在でいうキャリア官僚に当たります。その後に戦争がはじまり、海軍としてフィリピンなどの戦地へも赴き、この時の経験がその後の政策にも影響をしています。
終戦後の1947年に衆議院議員に当選した後、様々な大臣を歴任し、ついに1982年、自民党の総裁選で総裁に選出され首相となります。戦前から戦後の日本の中央で仕事をし続けたため、「戦後保守政治の生き証人」と呼ばれていました。
首相として行った大事業「三公社民営化」
戦後からの脱却、戦後政治の総決算として、中曽根元首相が行った代表的な政策としては国鉄、電電公社、専売公社の三公社の民営化の決断を行ったということです。民営化を行った公社はそれぞれJRグループ、NTTグループ、JTグループとなり、経営改善が行われて優良企業へと成長しています。
戦後の焼け野原の状態では、鉄道や電話網、生活に必要な塩などを国内の隅々までいきわたらせるために、国が補助してインフラや物資を供給する必要がありました。しかし、経営がうまくいかなった場合でも、国が補助してくれるという意識から、今では考えられないような設備の構築などを行い、負債が増え続けていました。さらに独占が認められている代わりに、公社は他の事業への進出など柔軟な事業展開ができないという難点もあり、負債を減らすためにも民営化が喫緊の課題となっていたのです。
そんな中、高度成長期を過ぎて、先進国の仲間入りを果たしたこともあり、こうした事業を国で行うよりも経済が活発な民間で行う方が経営の効率化も図れると考えられたのです。
もしも、中曽根政権の時に三公社を民営化しなかった場合、道路公団や郵政省など他の民営化事業も行われていなかった可能性もあり、日本の債務が今以上に多くなっていたかもしれません。大げさかもしれませんが、ギリシャやイタリアの債務超過で債務が支払えないという事態に日本も陥っていた可能性もあるのです。
こうした民営化に反対する勢力があったことは想像に難しくないと思います。国の将来にとっていいことであっても、多数決で反対されてしまってはうまくいきません。また雇用の安定を求める公社の労働組合などとも協議しなければなりません。
こうした関係者との調整を図って民営化を行わなければ批判が集中し、首相の辞任にまで発展する可能性もあった政策を実行したのが中曽根元首相だったのです。
専門家を信頼し、全体でいい方向に行くのなら英断も辞さない
三公社の民営化のような大事業を行う場合、自分の意図と反することや、様々な意見が出て話がまとまらないこともあったと容易に想像できます。また、自分の分からないことでも判断を迫られる場面もあったでしょう。
中曽根元首相は、その道の専門家や見識の深い人をブレーンとして自分の味方につけて、総合的な判断を自分で行うという形で行政を進めてきたことでも有名です。
民営化などの未来が見えない決断は、専門家の間でも意見の分かれたのではないかと思われますが、良い方向に行っても、悪い方向に行っても、責任を持つのは当時首相であった中曽根氏です。
三公社民営化以外の政策でも、中曽根氏は自身とは考えが異なる人物でも、重要ポストに起用するなど人事の面では適材適所で臨み、多くの難しい政策を実現してきました。自分にない部分を持つ人物を信頼し、例え違う考えであってもその見方を尊重する懐の深さがあったと言えます。
医院経営にも様々な異なる考えのスタッフをまとめるリーダーシップが必要
医院も小規模であれば全て自身の目で見て判断をすることができるかもしれませんが、一定以上の規模となってくると、どうしても目が行き届かない部分が出てくるものです。そんな時には、中曽根元首相のように多くの信頼できるスタッフを適正に配置して、その部分を任せる必要性が生まれます。
中には院長先生の考えとは異なるけれども、正しい考えを持っているスタッフもいることでしょう。中曽根氏の手法を応用すると、そういったスタッフも排除するのではなく、その道のスペシャリストとして働いてもらえるよう環境を整えるという選択肢が見えてきます。
それを実現させるためには、自分の医院をどのようにしていきたいのかというビジョンを明確にし、スタッフに伝える必要があります。中には違う考えを申し出るスタッフも出てくるでしょうが、そうしたスタッフの意見も、良いものであれば受け入れていくという姿勢も大切です。
中曽根元首相もこうした違った考えを積極的に受け入れていったため、風見鶏などと揶揄されることも多かったのですが、自分の考えだけが絶対に正しいということはありません。確固たる信念は変えられなくても、それを実現するための細かい考え方は様々な人の意見を取り入れていけば、より良い医院になり、可能性も広がるはずです。
中曽根元首相の政治的なリーダーシップは、違った考えを受け入れる深い見識と懐の深さによるものです。多くの人を動かす医院経営にもこうした姿勢は十分に応用できるのではないでしょうか。