世界のホンダをたった一代で築き上げた本田宗一郎氏の信念とは?
2018.05.09
本田宗一郎に学ぶ経営論~高い目標、有言実行、謙虚な経営~
人のまねや二番煎じを嫌い、どこまでも理想を追求した本田宗一郎、街工場の従業員を前に「世界のホンダになる」と宣言して、従業員を驚かせました。難しい目標を掲げて、けっして諦めずに挑戦を続けました。「ばかやろ~」という本田の大きな叫びとともに夢の製品は完成したといいます。
餅は餅屋、技術者に徹し、財務は藤沢に任せる
自分の限界や能力を正しく理解していた本田氏は、藤沢という財務に強い人材に「お金」のことは任せて、自分はひたすら新製品開発に没頭し、従業員と夜遅くまで、意見を戦わせて妥協のない製品作りに邁進しています。
この本田式の二人三脚経営が成功への道でありました。餅は餅屋であり「信じて任せる」ことができた本田の懐の広さが世界のホンダにまで成長した原動力ともいえるでしょう。内から何まで、すべて彼一人でやっていたならば、今のホンダの地位はなかったのです。
しかし「信じて任せる」ことは言うは易く、行うは難しです。会社経営をして、責任ある立場になると、すべてを知っておきたい、何でも口出ししたいという想いにかられます。その思いを、押し殺して「信じて任せる」ことこそ会社発展の道ではないでしょうか?
後継は優秀な人材に託す
その昔、大阪商人は息子に商売を継がせず、創業者の眼鏡にかなう男性を見つけて娘と結婚させ、婿養子に家督を譲ったといいます。
創業者はえてして後継者を自分の身内から選ぼうとしますが、本田氏も大阪商人同様、優秀な者から後継者を選ぶという方針を貫き、身内から後継者を選ばず、二代目社長に技術端出身の「川島 喜好」を後継者として直々に指名しています。
息子や本田一族から後継者を選ぶことをしなかったのは、会社は私的な存在ではなく、公的な存在であり「継続」することで社会的使命を果たすことが可能になるということを本田氏は理解していたからでしょう。
もし本田が私利私欲を優先して本田家から後継者を選んでいたならば、はたして今日のような世界的企業に発展していたのでしょうか。仮定の話であり、イエスともノーともハッキリとした結論は言えませんが、おそらく世界のホンダという名誉ある地位を得ることはできなかった可能性も十分にあるのではないでしょうか。
本田の名前にこだわらない
本田技研工業は三重県の鈴鹿市に工場を作り、その周辺には部品工場がたくさんできて、鈴鹿市は自動車工業の街として発展するようになりました。ある時、鈴鹿市の方から、市の名前を、「鈴鹿市」から「本田市」に変更してもいいとの申し出があったといいます。
しかし本田宗一郎氏は歴史と伝統のある鈴鹿という名前を個人の本田という名前に変えるのは好ましくないと言って、鈴鹿市側の申し出を、やんわりと断っています。並の人間なら鈴鹿市の申し出を受けていたでしょう。
断ることができたのは、本田という名前より歴史と伝統のある鈴鹿を大切にしたいという本田氏の考えだったのでしょう。
まとめ
以上のような本田宗一氏のエピソードからは、
1、 高い目標を掲げて、皆の前で宣言し、妥協は許さない
2、 優秀な人材を広く求め、抜擢すれば「信じて任せる」
3、 謙虚さを持って、冷静で正しい判断
という3つの姿勢を学ぶことが出来ます。医院経営にも生かせる点が大いにあるのではないでしょうか。