マネジメント

政治力の有無が病院の運命を決める!

2020.06.20

戦後政治史の巨人と呼ばれた田中角栄元首相の人心掌握術

医師が病院経営に乗り出すとき、医学のみならず病院組織の運営手腕も問われることとなります。病院経営には戦略立案からスタッフの統率まで、幅広い力量が求められます。突き詰めれば、政治力の有無が病院の運命を決めると言っても過言ではありません。
今回は石原慎太郎氏の著書「天才」を通じて、戦後政治史の巨人・田中角栄元首相の政治力について考えたいと思います。

人心の掌握

石原慎太郎氏の著書「天才」では、政敵として対峙した石原氏の視点も交えて、田中角栄元首相の実像を小説形式で浮き彫りにしています。
田中角栄氏は新潟県生まれの政治家で、政界・官界とは無縁の出自から内閣総理大臣にまで上りつめた人物で、退陣後も自民党の最大勢力・田中派の総帥として隠然たる勢力を誇り、政界の闇将軍とまで呼ばれました。このように、決して出自には恵まれなかった田中氏が、なぜ戦後政治史の巨人となったのか?その理由のひとつは、彼の人心掌握術にあると言えます。「天才」には、田中氏が大蔵大臣就任時に、官僚にかけた言葉が記されています。

「我と思わん者は誰でも大臣室に来てほしい。何でもいってくれ。(略)出来ることはやる。出来ないことはやらない。しかしすべての責任はこの俺が背負うから。以上だ」

この言葉にこそ、組織のトップとして人心を掌握する要諦があります。それは、まず部下の話を真摯に聴いてあげること。そして最終的な責任はトップが引き受けることです。こうすることで部下は仕事へのモチベーションが上がりますし、忌憚なく意見を述べることもできます。結果、意欲とアイデアが組織を活性化させるのはもちろん、業務の改善にもつながるのです。
田中角栄元首相は言葉だけでなく、実際に「責任を背負う」リーダー像を体現していました。あるとき官僚が国会審議に間違ったデータを出してしまった際には、田中氏は官僚が責めを受けないよう自らの責任で訂正し、ミスをフォローしてあげたといいます。こうして田中氏は官僚たちの心をつかみ、やっかいだと言われていた大蔵省のコントロールにも成功したのです。
さらに彼は、身近な人の冠婚葬祭には非常な心づかいをしてきました。田中派の有力者・竹下登(後に首相)の父親が亡くなった際は、派の国会議員を総動員して葬儀に参列させたといいます。こうしたところにも、人心掌握のコツがあるのでしょう。

即断即決と既成事実化

こうして勢力を伸ばし、首相の座に就いた田中角栄氏は、叩き上げの政治家らしい即断即決で人々を驚かせます。その最たる事績が日中国交正常化でした。「天才」では田中氏の思惑についてこう記しています。

「アメリカが中国との国交正常化に踏み切ったなら、それ以上に我が国は大を取るか小を取るかの選択を強いられるはずだった」
「(日中国交正常化が台湾との外交関係消滅につながりかねない事について)うまく対処しないとこちらの国内にゴタゴタが起きるに違いない。これにうまく対処するためには、中国との国交正常化はまず共同声明でスタートしてしまい、その既成事実を踏まえて国会の議決を要する問題は後回しにすることにした」

当時、田中氏は日中国交正常化において、ふたつの敵と対峙していました。ひとつは自民党内の保守派であり、もうひとつはアメリカでした。保守派は反共産主義を基本としており、台湾(蒋介石の中華民国)との関係を重視してきました。またアメリカは日本の頭越しに対中接近を進めていたため、日本が取り残されかねないという危機感もありました。
この難しい情勢において田中氏が採った戦法は、「即断即決」と「既成事実化」でした。国交正常化が急務であると判断した彼は、党内の合意形成を後回しにして対中交渉を進めます。そうして首相就任から三ヶ月足らずで日中共同声明に調印。先行していたアメリカを追い抜く形で、日中国交正常化を成し遂げたのです。
田中角栄氏が行った日中国交正常化は台湾との断交につながるため、反対派も根強く存在しました。しかし日中共同声明という既成事実があっという間に出来上がり、「日中友好」の大きな流れができてしまっては、もはや反対派とて成す術がなかったのです。
組織の運営においては、時には反対があっても断行すべきことも出てくるでしょう。そうしたケースでは田中氏が対中交渉でみせた手腕が参考になります。彼は「即断即決の実行力」を発揮したのはもちろん、「既成事実化で流れを作る」ことで、時局を完全に主導しました。組織の統率者としては、ぜひとも記憶にとどめておきたい事例です。

天才も執着には勝てず

最後に「天才」の記述からお伝えしたいのは、田中角栄氏の失敗から得られる教訓です。
首相として一世を風靡した彼も、自らの金脈問題によって退陣を余儀なくされます。その絶大な存在感にもかかわらず、彼の政権は約二年半という短いものでした。
首相の座を追われ、さらにはロッキード事件の渦中にあってなお、田中氏は最大派閥・田中派の長として絶大な権勢を誇りました。そんな彼が首相の座に未練を残し、再登板を願ったのは想像に難くないでしょう。しかしこれによって鉄の結束を誇った田中派が瓦解したのですから、皮肉な結末といわざるを得ません。
田中氏が首相返り咲きに固執するということは、彼に続く田中派の有力者に順番が回ってこないことを意味します。こうした不満の蓄積の結果、ついに子飼いの部下たちが反旗を翻しました。その先頭に立ったのが、後に首相となる竹下登氏だったのです。「天才」では、田中氏の竹下氏に言った言葉を以下のように記しています。

「十年待てないのか。俺がもう一度やってからお前が総理をやるんだよ」

この発言からほどなくして、竹下氏は勉強会と称する自分のグループを立ち上げます。ほどなくして田中氏が脳梗塞で倒れたことも重なり、竹下氏は新派閥を立ち上げ、田中派の多数のメンバーもこれに参加することとなりました。
本来、田中氏ほどの知恵者であれば、総裁候補を出せない現状に、田中派内で不満が蓄積していることは理解できたはずです。ではなぜこのとき田中氏は適切な対処ができず、部下たちの離反を許してしまったのでしょうか?
それは結局のところ「執着が判断を狂わせた」ということに尽きると思われます。無念の退陣から時を経ても、彼は首相への返り咲きをあきらめきれなかった。その執着ゆえに、派内に蓄積された不満を軽視してしまったのは否定できない事実でしょう。人間とは執着の動物です。田中氏ほどの知性に優れた大人物ですら、執着の前には判断を誤った…これは私たちにとっても重い教訓といえます。
病院の経営もまた、トップの誤った判断ひとつで危機に陥ることがあります。医療サービスの展開から、人事や危機管理に至るまで、院長には重い決断が迫られる局面もあります。
病院経営者としての重要な判断を迫られたときは、執着にとらわれることなく、曇りのない目で物事を見ているかを、一度立ち止まって確認してみましょう。

執筆者:DR’S WEALTH MEDIA編集部
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