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明智光秀に与えた名字の意味

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2017.09.27

戦国武将に学ぶ医院での人材登用VOL.2

その知力と、大胆な人材登用で織田家という強大な組織をつくり上げた織田信長。四方を敵に囲まれた状態が何年も続いていたことも、見方を変えれば、それに耐え得るだけの資金と人的資本を保有していたと言えます

農民の抵抗力を奪い統治しやすくすること目的とした「兵農分離」や、情報と流通インフラ整備のために導入した「楽市楽座」などの画期的な施策によるものであることは、史実からも明らかです。

特に人材登用の面では、役職が代々受け継がれることが常であった時代において『完全実力主義』を貫くことで、後の主要幹部となる羽柴秀吉(豊臣秀吉)や明智光秀、滝川一益を配下に収めています。

さらに信長は、官位や姓の利用価値を理解していた数少ない大名であったとも言われています。

当時、朝廷から受ける官位のほとんどは寄進に対する褒美に過ぎませんでした。単なる『箔』であり、管理もされておらず、そのほとんどは自称であったと言われています。

ところが信長は、正式な手続きを経て朝廷から官位や姓を得て、これを配下の武将に与えることで版図拡大に活用しました。

実現されなかった九州征伐にまつわる、こんなエピソードが残っています。

西では毛利、東で武田や上杉、そして四国の長宗我部と睨み合いながら、九州征伐を思い描いていた信長。重臣である羽柴秀吉には『筑前守(現在の福岡県)』の官位を、丹羽長秀に『惟住(これずみ)』の姓、後に自分を滅ぼすことになる明智光秀には『日向守(現在の宮崎県)』の職に加え『惟任(これとう)』の姓を与えました。ちなみに『惟住』と『惟任』は、島津や大友に並ぶ九州の名族です。

つまりこれらの官位や姓を腹心の部下に与えることで、周囲に「次は九州征伐である」ことを
大々的にアピールしたわけです。

実際には九州征伐を待たずして信長は明智光秀によって討ち取られたため真相は闇の中ですが、この3人を中心に九州を制圧し、その後は諸外国との貿易なども任せようと考えていたとも言われています。おそらく、その流れは3人にも伝えられていたことでしょう。

配下武将の官位や姓を内外に知らしめることで、敵対する大名にはプレッシャーを与え、部下には役割を明確にすると共にモチベーションアップに繋げていたのではないでしょうか。

単なる『箔』に過ぎなかった官位を、織田家の将来と部下に対する期待のメッセージとして活用していたと考えられます。

そしてこれは、医院の経営にも応用することができます。今で言うなら『役職』でしょうか。もちろん、『チーフ』や『リーダー』といった抽象的なものではあまり意味がありません。

しかし例えば、『レセプトチームリーダー』、『テクニカルトレーナー』と具体的にすれば、役割も明確になるでしょう。スタッフとしても自分が何を求められているのかが分かり、近い将来の自分の姿をイメージすることができます。加えて、それぞれの役割を明確にすることで、業務ごとの指示系統をまとめられるという副産物もあります。

ですが、もしかしたらあなたは、「肩書だけでは何も変わらない」と、思うかもしれません。

そこで考えて頂きたいのは、明確な役割を与えられたスタッフの気持ちです
自分が医院に求められていること。そのためには何をすればいいのかが分かること。それが実感できると、自分が医院に必要とされている理由が分かるのです。スタッフにとって、モチベーションを上げるための要素としては十分なのではないでしょうか。

・医院のあるべき姿をスタッフに伝えられていない
・それぞれのスタッフに求めることを明文化したことがない
・近い将来、スタッフに任せたいことがある

あなたがもし、このようなことを一度でも感じたことがあるなら、医院の方向性やスタッフに対する期待のメッセージとして『役職』を使うことを考えてみてはいかがでしょうか。

スタッフに対する影響は、想像以上だと思いますよ。

組織が人を育てるのか。あるいは、人が組織を育てるのか。あなたは、どう思いますか?

執筆者:DR’S WEALTH MEDIA編集部